アクロポリスの丘・パルテノン神殿の歴史と遺跡、ギリシア神話を解説

                   

アクロポリスで世界で一番有名なのがアテナイのアクロポリス。
オリンポスの神々を信仰し祀った聖域でもあり、敵の侵略を防ぐ要塞としての役割も担っていました。
そんなアテナイのアクロポリスについて、パルテノン神殿を始めとする美しい遺跡の歴史や見どころを画像と共に解説。
アテナイの名前の由来となったギリシア神話もご紹介します。

スポンサーリンク

アクロポリスの丘の歴史

アクロポリスには「高い丘の上の都市」という意味があり、古代ギリシアのポリス(都市国家)のシンボルとなった小高い丘のことをいいます。

アクロポリスは古代ギリシアの都市国家であるスパルタやメガラ、アルゴス、コリントス、テーバイなど各地に多数ありますが、世界で最も知られている一番有名なアクロポリスがアテナイのアクロポリスです。

ドーリア人の侵略を防ぐための要塞として、紀元前13世紀に壁が造られました。

神殿が建てられ始めたのが紀元前8世紀頃。

アテネの守護神アテナ信仰が盛んになり聖域化され、アテナを始め、ゼウスやポセイドン、アルテミス、ディオニソスなどの神々を祀る神殿が建てられ始めました。

あの有名なパルテノン神殿の前身となる神殿が建てられたのは紀元前6世紀頃です。

しかし、紀元前5世紀頃にペルシア軍に侵攻され、ギリシアが戦争に勝利したものの建造物のほとんどが壊されてしまいました。

現在姿を残すパルテノン神殿を始めとする神殿が再建築されたのは、アテナイが経済的、文化的に最高潮に達していた黄金時代の紀元前5~4世紀頃。

この頃に、重要な神殿のほとんどがアテナイの最盛期を築き上げた政治家ペリクレスの指導のもと再建されました。

再建の総指揮を執ったのは偉大なアテナイの彫刻家ペイディアスで、再建を請け負ったのが建築家のイクティノスとカリクラテスです。

しかし、3世紀になるとヘルール族の侵略の脅威により、アテナイのアクロポリスは再び要塞として機能するようになります。

その後も支配者の王宮や教会、モスクとして使われるなど時代によって使われる目的が変化していったのですが、17世紀(1687年)にヴェネツィア軍の砲撃を受け、廃墟と化してしまいます。

そして19世紀以降は紀元5世紀頃の状態に戻すという計画の元、修復再建作業が行われ、それは現在も続いています。

パルテノン神殿の歴史

アテナイのアクロポリスの建築物の中で最も有名なのがパルテノン神殿ですね。

施工が開始されたのは、ちょうどアテナイのアクロポリスが再建築されていた黄金時代である紀元前447年。

建築家イクティノスとカリクラテスが設計、フェイディアスが総指揮を執り、15年の歳月を費やして紀元前432年に完成しました。

パルテノン神殿はアテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテナを祀る神殿で、当時は神殿内部にアテナイの守護神アテナの高さ12mにも及ぶフェイディアス作の巨大な像が安置されていました。

アクロポリスへアテナ・パルテノスの聖域を設けようという試みは、既にマラトンの戦い(紀元前490年~紀元前488年)が勃発していた頃に行われていたといいます。

ビザンティン時代(395年~1453年)では聖母マリアに捧げられた教会とされますが、オスマン帝国時代では火薬庫として使われ、1687年9月26日にヴェネツィア軍の攻撃によって爆発炎上し、大破してしまいました。

1832年のギリシア独立以降、復元作業が進められましたが、本格的に遺跡の修復作業が始められたのは1975年になってからです。

スポンサーリンク

ギリシア神話:アテナイの由来は?

さて、都市国家名『アテナイ』はギリシア神話のオリンポス12神の1人である知恵と戦いの女神アテナに由来しています。

都市国家名がアテナイの由来になることがわかるギリシア神話がありますのでご紹介しましょう。

アッティカ(ギリシアのアテネ周辺をさす地域名)の最初の王の名前はケクロプス。

その姿は上半身が人間で、下半身が蛇という出で立ちでした。

ケクロプスの収める地域に住んでいる人々は『ケクロプスの子たち』と呼ばれていました。

ある日、ケクロプスは神々にこの市の守護神を決めるように命じられます。

そこへ2人の神、海神ポセイドンと知恵と戦いの女神アテナが守護神として名乗りを上げました。

ケクロプスは、ケクロプスの子たちが喜ぶ贈り物を与えた方を、市の守護神とすることを伝えます。

すると海神ポセイドンは三叉の鉾で岩を刺し、塩水を吹き出させて「エレクテウスの海」を造りました。(そこから馬を出したとする話もあります。)

一方、知恵と戦いの女神アテナは槍で大地を突き、突いた場所から実を付けたオリーブの木を生みだしました。

ケクロプスの子たちが選んだのは、知恵と戦いの女神が生み出したオリーブの木。

オリーブの木の方が海よりも市を潤すと判断したからです。

ケクロプス王は知恵と戦いの女神アテナに軍配を上げ、約束通りアッティカの守護神をアテナとし、市の名前もアッティカからアテナイへと変更したのでした。

アクロポリスにある古代ギリシアを代表する4つの傑作

アテナイのアクロポリスには古代ギリシアを代表する傑作建築物が4つあります。

その4つとは、パルテノン神殿、エレクティオン、アテナ・ニケ神殿、プロピレアです。

この4つについて、画像と魅力を詳しくお伝えしましょう。

パルテノン神殿

私がギリシア一人旅を訪れた2015年1月当時、ご覧の通りがっつり正面が遺跡の修復作業中でした。

むぅ…残念…。

パルテノン神殿は、建築家イクティノスとカリクラテスが15年の歳月を費やし、守護女神アテナ像に捧げた戦勝記念堂として建てた建物。

紀元前432年にはほぼ完成したのですが、装飾の製作は少なくとも紀元前431年まで行われていました。

計46本の柱が周囲を囲み、柱の表面に掘られた20本の溝が建物全体に曲線美を与えています。

直線的で垂直に建てられているように見えるドリア式列柱ですが、柱の中間にはふくらみがあり、上部は細くなっていますし、少し内側に傾いています。

柱と柱の間隔は同じではなく、角の柱は他の柱より太くなっています。

さらに、1本のつながった柱ではなく、何個も石造を積み重ねて1本の柱としていることもよくわかります。

こうした目の錯覚を利用したパルテノン神殿の特徴は有名ですが、この建築構造は屋根の重さを支えることにも役立っています。

パルテノン神殿は、建築美学だけでなく現実的用途も考慮された最高傑作なのです。

エレクティオン

少女像が屋根を支えている建物で有名のエレクティオン。

完成したのは紀元前408年です。

伝説上の王エレクテウスの館とされ、複数の神々が祀られていました。

紀元前86年にローマの独裁者であるスラによって焼かれましたが再建され、その後は教会やフランク王の宮殿、オスマン帝国のハレムとして使われました。

現在残っている神殿は紀元前480年にペルシア人が侵入したペルシア戦争で破壊された後に再建されたものであると信じられています。

南側にあるのが有名な少女像『少女の玄関』があり、北側には円柱を持つ別の大きな玄関があります。

少女像は6体ありますが、ここで屋根を支えている少女像は全てオリジナルではなく複製です。

オリジナルの6体のうち5体は新アクロポリス博物館、1体は大英博物館に所蔵されています。

アテナ・ニケ神殿

紀元前424年に完成した、別名「翼なき勝利(ニケ)の女神」と呼ばれる神殿。

ニケはギリシア語で勝利を意味し、知恵の神としてのアテナをアテナ・ニケとして祀っていました。

戦いで常に勝利を願うアテナイの市民が、勝利の女神がどこへも行けないようにと翼を切り落としてこの神殿に祀ったとされています。

神様の翼を切り落として閉じ込めるってすごい発想…。

プロピレア

アテナイのアクロポリスへの入り口の建物。

…なのですが、ご覧の通り私がギリシア一人旅で訪れた2015年1月当時はがっつり遺跡の修復作業中で、写真からでは「え?どこが入り口?(“゚д゚)ポカーン」デスネ…。

でもちゃんとここから入れるようになっているんです。

最初のプロピレアが造られたのは、紀元前6世紀のアクロポリスがアテナに捧げる聖地とされた頃。

紀元前510年~紀元前480年頃に造られた門は紀元前480年にペルシア戦争により破壊されたため、現存するプロピレアはそれ以降の紀元前437年に建設されたものです。

アクロポリスの神殿・建物

アテナイのアクロポリスには、ご紹介した古代ギリシアを代表する4つの傑作以外にも注目すべき建物がありますので、ご紹介しますね。

アグリッパの台座

元々は紀元前2世紀、ペルガモン(紀元前3世紀半~2世紀頃)の王の馬車像を設置する台座として造られました。

その後はローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心であるマルクス・ウィプサニウス・アグリッパの像が置かれていました。

アグリッパは古代ローマの軍人であり政治家で、あの「賽は投げられた」「ブルータスお前もか」で有名なガイウス・ユリウス・カエサルに見いだされてアウグストゥスの補佐を務め、アウグストゥスの娘婿になりました。

ブーレの門

ローマ帝国支配下の3世紀に建てられた防御のための建物です。

門の名前は、19世紀半ばにフランス人考古学者ブーレによって発見されたことに由来しています。

ディオニソス劇場


オリンポス12神の一人、酒と演劇の神であるディオニソスの聖域に造られた大型野外劇場。

アテナイのアクロポリスの麓に建てられ、ギリシア最古の劇場でもあります。

紀元前325年に建設され、15000人を収容できるほどの大きな劇場で、最前列は貴賓席になっていたと言われています。

毎年ここでディオニソス祭が行われていました。

イロド・アティコス音楽堂

161年、ギリシア人の貴族でありローマの元老院議員でもあったアッティカの大富豪イロド・アティコスが、妻アスパシア・アニア・リジラを偲んで建設しました。

観客席は6000ほどもあり、現在でも夏になると演劇、コンサート、オペラなど上演に使われています。

1973年にはミス・ユニバース世界大会の会場にもなり、アメリカ国外で初、ヨーロッパで初、東半球で初に開かれた大会でした。

この時の大会でトップ12に日本人の染谷美代子さんが入賞して、日本は5年連続の入賞を果たしました。

まとめ

アテナイのアクロポリスの歴史や魅力を画像を交えてお届けいたしましたがいかがでしたでしょうか。

建築物の美しさ、見どころポイントを中心にお伝えしましたが、アクロポリスの見どころはそれだけではありません。

『アクロポリス=高い丘の上の都市』というだけあって、アクロポリスは丘の上にあり、そこからのアテネの眺めはもう本当に最高!

アテネが見渡せるので要塞としては抜群だったんだなあと思いました。

奥に見えるのがリカヴィトスので、アテネで最も高い丘です。

アテナイのアクロポリスの遺跡で最も有名な建物と言えば、パルテノン神殿ですね。

私もアクロポリスを訪れた最大の目的はパルテノン神殿を見ることでした。

世界史の教科書やテレビでしか見たことないパルテノン神殿を目の当たりにした時は、とても感動しましたが、エレクティオンの美しさにも感動…。

6体の少女像が建物を支える芸術的美しさは、まるでロールプレイングゲームの世界に入り込んだかのような気持ちになりました。

その辺の草むらからスライムとか現れそうでしたし^^

私が訪れたときは、アクロポリスの正面入り口やパルテノン神殿の正面が思いっきり修復作業中だったので、修復の終わった美しい姿を正面から見てみたいなあと思います。

スポンサーリンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*