中国の西安にある青龍寺には恵果と空海の像があります。
空海が恵果から密教を伝授されている場面の像です。
真言宗の開祖、弘法大師として有名な空海。
彼は一体どんな人物だったのか。空海が学んだ密教とは何のか、恵果とはどんな人物なのか。
空海の生い立ち、プロフィールを交えながら、中国唐時代の歴史を紐解いてご紹介します。
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空海の生い立ち
俗名は佐伯(さえきの)、幼名を眞魚(まお)と言います。
佐伯眞魚(さえきのまお)ちゃん…可愛いお名前ですね^^
空海という名前の由来は、青年だった空海が高知県の室戸岬にある御厨人窟で修行していて、そこから見える風景が空と海だったことに由来すると言われています。
空海は、774年讃岐国多度郡(現在の香川県善通寺市、仲多度郡あたり)で生まれました。
母親は阿刀の氏族で、阿刀氏の出自はイスラエルの末裔、つまり渡来人であると言われています。
母方の叔父である阿刀大足は桓武天皇の皇子の家庭教師でした。
父親は讃岐国多度郡の豪族で、地方の官人、現在でいうとノンキャリアと言えます。
父親は空海を中央官人、今でいうエリート役人にするため、空海が15歳の時に阿刀大足から論語などの中国の書物を学ばせ、18歳で完了育成機関である大学寮に入学させました。
空海が入学した学科は、儒学を勉強する明経科です。
しかし、空海が選んだ道は中央官人ではなく僧だったため、父親に猛反対されたそうです。
空海による日本への密教伝来
空海が遣唐使として唐に派遣されたのが804年、学問僧として唐へ渡りました。
実は前年の803年に医学の知識を評価され、医薬を学ぶ遣唐使として唐に渡る予定だったのですが、悪天候のために唐へ渡ることができませんでした。
804年も悪天候でしたがなんとか唐に渡ることはできました。
しかし嵐に見舞われ予定していた目的地と違う場所へと漂着してしまったのです。
そのため、海賊と疑われてすんなり唐に入ることはできませんでした。
そこで空海は現地で嘆願書を提出。
すると嘆願書の文章と筆跡が優れているということで、海賊ではなく遣唐使だと認められ、日本を出発してから半年後にようやく唐の首都である長安(現在の中国西安)に入ることができました。
長安で空海が最初に師事したのはインドの僧である般若三蔵です。
これは、密教を学ぶのに必須であるサンスクリット語を学ぶためだったとされています。
その後、空海は青龍寺に住持する恵果を訪ね、半年間恵果の元で学びました。
恵果は初対面で空海の力を見抜いて密教の奥義伝授を始めたといいます。
806年、空海は20年の留学予定だったのですが、たったの2年で日本へ帰国します。
留学期間を大幅に短縮した理由は滞在費が無くなったことが理由だったそうです。
日本帰国中にも嵐に見舞われたのですが、無事帰国して真言密教を伝えました。
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密教とは
秘密の協議・儀礼を大衆に説くのではなく、師から弟子へと口頭で代々伝承していく仏教のことを言います。
対して、広く大衆に説くことを顕教と言います。
さて、密教は一般的には大乗仏教の中での秘密教を指します。
大乗仏教というのは、衆生救済(我が身より他の者を救済するのが先であり、自分の救いは仏心にまかせる)という考えのことです。
日本で初めて密教を伝えたのが天台宗の開祖である最澄です。
最澄は日本の天台宗の開祖であり、空海と同じ平安時代の僧です。
日本で初めて密教を伝えたのは最澄ですが、彼が本格的に学んでいたのは天台教学であり密教ではありませんでした。
そのため、日本で密教を伝えたのは青龍寺で本格的に密教を学んだ空海が日本に帰国した806年以降とされています。
青龍寺と恵果
空海に密教を伝授した恵果とはどんな人物だったのでしょうか。
恵果は唐時代の密教の僧です。
恵果は長安の青龍寺で曇貞から、次に大興善寺の不空三蔵から密教を学び、究めました。
青龍寺は密教の拠点。
恵果は青龍寺に住持して密教を広め、多くの人材を輩出しました。
空海が青龍寺の恵果和尚を訪ねたのが805年5月。
その年の12月に恵果は60歳で入寂しました。
空海が開祖である真言宗は、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としています。
空海の青龍寺入りがあと1年でも遅れていたら恵果から密教を学ぶことが叶わなかったため、真言宗が確立されることも無く、日本の仏教、文化が大きく変わっていたかもしれませんね。
まとめ
それでは今回の記事のまとめです。
空海は遣唐使として中国を渡り、西安にある青龍寺で恵果から密教を学びます。
その後日本へ帰国した空海が、日本で初めて本格的な密教を伝えたのです。
後世にはお大師様として神格化され、信仰の対象にもなり、日本の文化・芸術に多大な影響を与えました。
「虚しく往きて実ちて帰る」という言葉を聞いたことはありますか?
空海の言葉で「右も左もわからない不安で虚しい気持であったが、今は満ち足りている。」という意味です。
空海の「唐に渡るわずか2年前までは何もわからない状態であったが、今は満ち足りている」と唐で学んだ成果の大きさを物語っているのですが、どれほど空海が、青龍寺での恵果との出会い、恵果から学んだことに満足しているのかがよくわかります。
青龍寺(西安)と空海の歴史を知った後に、ぜひおすすめなのがこちらの記事です↓
西安にある青龍寺がどんなお寺なのかを画像とともに紹介している記事です。
まるで青龍寺の境内を散策しているような気分で画像の旅を楽しんでいただけますよ^^
ぜひ西安を訪れることがありましたら、青龍寺にも足を運んでみて下さいね。
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