長恨歌のあらすじと歴史的事実~楊貴妃と玄宗の悲恋と華清池~

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「楊貴妃と玄宗皇帝のロマンスって何?」「楊貴妃と華清池との関係は?」
その答えは全て長恨歌にあります。
長恨歌のあらすじ、時代背景、作られたきっかけなど史実と照らし合わせながら長恨歌について詳しく解説。
恋愛エピソード好き、中国の歴史好きはもちろん、これから中国西安を訪れるという方はぜひチェックしておきたい内容です。

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長恨歌とは

長恨歌は、中国唐時代を代表する詩人である白居易が作った長編漢詩です。

白居易の字は楽天、そのため白楽天とも言います。

白居易は既に5~6歳で詩を作り、9歳で声律を覚え、29歳で科挙(官僚登用試験)の最も難しい試験である進士科に合格したという正真正銘の天才詩人。

白居易は多くの詩を残しましたが『長恨歌』は彼の残した詩の中でもとくに有名であり、代表作となっています。

さて、長恨歌の『恨』という文字を見て、あなたはどんな意味を想像しますか?

「憎む」や「恨む」といった意味を思い浮かべたという方が多いのではないでしょうか。

しかし、長恨歌の『恨』は「悔やむ」や「悲しい」といった『悲哀』の意味をもっています。

長恨歌は、一言でいうと『楊貴妃と玄宗皇帝の悲恋を歌った詩』です。

長恨歌のあらすじ

漢の皇帝は長年にわたって絶世の美女を得たいと思っていたのですが得られていませんでした。

楊家にようやく一人前になる娘がおりました。

深窓の令嬢として大切に育てられたその娘は絶世の美女。

漢の皇帝は楊家の娘を手に入れ寵愛し、娘は華清池の温泉を賜りました。

娘にのめり込んだ漢の皇帝は、政治を疎かにし、娘の縁戚の者たちにも領地や高い位を与え、日々を穏やかに楽しんで過ごしていました。

そんなある日、反乱がおきてしまいます。

漢の皇帝は宮殿から逃げ出すものの、楊家の娘に不満を持っていた軍隊は動こうとしません。

軍隊を動かすため、漢の皇帝はなすすべなく、軍隊に楊家の娘の殺害を許可してしまうのです。

そして楊家の娘は馬の前で命を失ってしまいます。

楊家の娘を失った漢の皇帝は悲しみに暮れ、都へ戻ってからも彼女を思い出しては悲しみに暮れる日々を送っていました。

そこへ魂を呼び寄せられるという道士が現れます。

悲しみに暮れる漢の皇帝の身を案じた人々は、道士に楊家の娘の魂を探すよう求めました。

楊家の娘の魂をなかなか見つけられなかった道士でしたが、ようやく仙人の山で太真という名前の仙女を見つけたのです。

彼女こそ、仙女となった楊家の娘だったのです。

道士が漢の皇帝の遣いだと知った太真は、道士に漢の皇帝との思い出の品と言伝を託しました。

思い出の品は『螺鈿の箱』と『金のかんざし』。

言伝は、彼女と漢の皇帝の二人だけがわかる言葉でした。

天にあっては願わくは比翼の鳥となり 地にあっては願わくは連理の枝となりたい
天地は悠久といえどいつかは尽きる時がくる
しかしこの悲しみは綿々といつまでも尽きることがないだろう

それはかつて二人が誓い合った永遠の愛の言葉だったのです。

楊貴妃と玄宗皇帝の関係

長恨歌に登場する漢の皇帝が玄宗皇帝、皇帝から寵愛を受けた楊家の娘が楊貴妃がモデルになっています。

楊貴妃は世界三大美人の一人であり、絶世の美女として有名ですね。

彼女は中国唐時代の皇妃であり、本名を『楊玉環(ようぎょくかん)』と言います。

『貴妃』というのは名前ではなく中国の後宮の中での地位で、トップである皇后の次に位の高い地位です。

楊貴妃は719年、蜀の役人である楊玄淡(ようげんたん)の四女として生まれました。

容姿が美しかっただけでなく、音楽、舞踏にも優れた才女。

彼女は735年に唐の第6代皇帝である玄宗と武恵妃の息子である李瑁(りぼう)の妃となります。

737年に武恵妃が死去、740年に楊貴妃は玄宗に見初められ、寵愛を受けることとなったのです。

つまり、楊貴妃と玄宗皇帝との関係は、楊貴妃から見れば義父(夫の父親)、玄宗皇帝から見れば息子の妻だったというわけですね。

彼女が貴妃となったのは745年、この時楊貴妃26歳、玄宗皇帝60歳でした。

玄宗皇帝の政治はもともと中国史上の安定期の一つである『開元の治』と称されるほどの善政で唐の絶頂期と言われていました。

しかし、楊貴妃を寵愛したことにより政治を放棄、唐は混乱し、安史の乱を引き起こしてしまったのです。

楊貴妃がきっかけで反乱が起こってしまったことから、楊貴妃は『傾国の美女』とも呼ばれたりします。

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長恨歌の時代背景である安史の乱とは

長恨歌のあらすじで登場した反乱というのは、安史の乱のことです。

安史の乱とは、唐の節度使の安禄山、安禄山の盟友である史思明、安禄山の息子たちによって引き起こされた大反乱で、755年~763年の9年間にも及びました。

安禄山は唐時代の軍人。

生粋の漢民族ではなく中央アジアと遊牧民族の血を引いています。

安禄山は玄宗皇帝に気に入られ、地方の軍と財政を統括する節度使という地位を与えられました。

彼は楊貴妃にも気に入られ、3つの地域の節度使を兼任しますが、実は虎視眈々と政治の実権を狙っていました。

一方、玄宗皇帝は寵愛していた楊貴妃の一族も取り持ち、楊一族を次々へと高い地位にしていきました。

楊一族に対する人々の不満がたまっていき、その不満は楊貴妃にも向けられていきます。

宰相であった李林甫が病死すると楊貴妃の又従兄である楊国忠が次の宰相となりました。

楊国忠は口は達者、軽率な性格で威厳が無い、今でいうお調子者で素行が良くなかったといいます。

そんな楊国忠と安禄山とは元々仲が悪かったのですが、楊国忠が宰相になったことで安禄山は危機感を募らせ反乱を引き起こしたのです。

これが安史の乱のはじまりです。

756年、安禄山は洛陽を陥落させ、聖武皇帝を名乗り、燕国を建国。

玄宗、楊貴妃、楊国忠は攻めてくる安禄山の軍から逃げるため、宮廷を脱出します。

しかし逃げる途中で護衛の兵たちが反乱をおこし、楊国忠は殺されてしまいます。

さらに兵士たちは、楊貴妃が玄宗皇帝を惑わしたから国が傾いた、そもそもの反乱の発端は楊貴妃にありと玄宗に楊貴妃殺害も要求。

玄宗は楊貴妃をかばいきれず最終的に楊貴妃殺害の要求を了承、楊貴妃は玄宗の腹心であった宦官の高力士に絞殺されてしまったのでした。

失意の中、玄宗は退位、三男が粛宗として即位し、反乱鎮圧に乗り出します。

安禄山はその後、長安を陥落させましたが失明や腫瘍といった病に悩まされ凶暴化、息子の安慶緒や側近たちの反感を買い、暗殺されてしまいます。

その後安慶緒が父の跡を継ぎ、燕の第2代皇帝となります。

安禄山の盟友であった史思明は粛宗や彼の側近たちが自身の暗殺計画を企てていることを知ります。

そして安慶緒を攻め滅ぼして、史思明は大燕皇帝となりました。

しかし761年に長男の史朝義に殺され、史朝義が燕の第4代皇帝となります。

762年史朝義も離反により洛陽を追われ翌763年に自殺、燕は滅亡。

こして安史の乱は収束したのでした。

長恨歌に登場する『華清池』

長恨歌に登場する楊家の娘が漢の皇帝から賜ったという『華清池の温泉』は実在し、中国西安の観光スポットとなっています。

長恨歌では『温泉の水は滑らかで白い肌を洗う』と楊貴妃の美しさを歌っています。

華清池には楊貴妃が入浴したという浴槽もあります。

まとめ

それでは今回の記事のまとめです。

長恨歌は中国唐時代の天才詩人白居易が作った長編漢詩です。

ストーリーは漢の皇帝(玄宗皇帝)と楊家の娘である絶世の美女(楊貴妃)の悲恋物語。

さて、白居易が長恨歌を作るきっかけが陳鴻の書いた小説『長恨歌伝』に記されているのでご紹介しましょう。

白居易、陳鴻、王質夫の三人が仙遊寺に集まったときのこと。

3人は玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードの話になり盛り上がって感嘆します。

この時王質夫は白居易に「世にも奇妙な出来事は、一代の傑出した才人の手で潤色されるのでなければ、時と共に消滅してしまって世の中に伝わらなくなってしまう。楽天、君は詩に造詣が深く、情に豊かな人だ。試みにこの出来事で歌を作って見てはどうか」と言います。

これが白居易が長恨歌を作ったきっかけになったといいます。

あなたは長恨歌のあらすじ・内容を知って何を感じましたか?

私は仕方がなかったこととはいえ、愛する人に裏切られ殺されてしまったにもかかわらず、変わらない玄宗皇帝への愛を抱き続ける楊貴妃の一途な思いに感動しました。

元々は夫の父親だったため純愛とは言えないかもしれませんが、裏切られてもなお愛し続けられるなんて素敵だと思いました。

約1200年前にこんな素敵な作品を作り上げたなんて、白居易はまさに天才詩人。

中国西安の観光スポットである華清池は、楊貴妃と玄宗皇帝とのロマンスの地として有名です。

私も西安一人旅で訪れましたが、美しい場所でした。

そんな華清池の景観をたっぷりの画像でご紹介した記事も用意してあります。

上記画像リンクをクリックしていただければ、1300年前の中国にタイムスリップした旅を楽しむことができますよ^^

ぜひあなたも機会がありましたら訪れてみて下さいね。

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