西安事件とは?蒋介石が拉致監禁されたきっかけと目的を暴く

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西安事件とは張学良と楊虎城が蒋介石を監禁した事件のことです。
1936年12月12日に中華民国西安の華清池で発生しました。
一体何故西安事件は起こったのか。
事件に関係する人物のプロフィールやきっかけ、目的について時代背景を踏まえながら解説します。
また華清池で起こった事件当日の緊迫した状況の詳細についてもお伝えします。

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西安事件に関係する人物のプロフィール

まず、西安事件に関係する重要人物4名のプロフィールをご紹介しましょう。

彼らはどんな生い立ち、経歴、思想を持っていたのか。

それらがどう西安事件が発生するにつながったのか。

より理解を深めるために、彼らのプロフィールを順番に見ていくこととしましょう。

蒋介石:西安事件の被害者

西安事件で拉致監禁された被害者です。

学生時代の歴史の授業で勉強した、名前を聞いたことあるなど、おそらくほとんどの日本人が名前を耳にしたことがあり、誰でも知っている超有名な歴史上の人物ではないでしょうか。

蒋介石は、中国国民党の永久総裁です。

中国国民党は中華民国の政党で、蒋介石は中華民国の初代総統です。

彼は1887年、現在の中華人民共和国浙江省寧波市に生まれました。

父親は商人で家は裕福でしたが、9歳の時に父親が亡くなります。

母親は、蒋介石が6歳の頃から塾に通わせたり家庭教師をつけて勉強させるなどしていた教育ママ。

蒋介石は10歳~16歳の時に毛鳳美という人の塾で勉強し、19歳の時に毛鳳美の娘である毛福梅と結婚します。

蒋介石は生涯3人の妻と1人の妾を持ちました。

蒋介石のひ孫である蒋友柏さんが「イケメンでカッコイイ!」と話題になったのは記憶に新しいですね。

蒋友柏さんの祖父は、蒋介石と最初の妻である毛福梅の長男である蒋経国、父親は蒋経国の三男である蒋孝勇。

ちなみに蒋友柏さんの祖母である蒋方良はロシア帝国の貴族出身です。

さて話を蒋介石のプロフィールに戻しましょう。

西安事件の翌年の1937年に日中戦争が発生。

日中戦争後に国共内戦が発生、そこで中国共産党の毛沢東に敗れ、1949年に台湾に移り、台北への中華民国遷都を余儀なくされます。

1975年、87歳で亡くなりました。

張学良:西安事件の首謀者

張学良は中華民国の軍人、政治家です。

1901年、満州地方の馬賊(盗賊に対する自衛組織)であった父、張作霖の長男として生まれました。

彼は父親に可愛がられ、大勢の家庭教師をつけてもらい、高い教養を身につけます。

16歳の時に結婚し、17歳で第一子が誕生して父親となります。

1919年に父親の創設した陸軍軍官学校の一期生として入学。

1928年、父親が蒋介石の北伐(中国国民党による全国の統一を目指した戦争)軍に敗れ、父親は満州に引き上げる際に関東軍(大日本帝国陸軍の総軍の一つ)によって暗殺されてしまいます。

そして父の跡を継いで奉天派(父親が率いていた馬賊と満州に駐留していた北洋軍の駐留部隊が融合した軍閥)の総帥となります。

蒋介石率いる中国国民党の政府に降伏し服属を表明し北伐が収束、奉天派は東北軍へと改編され、張学良は奉天派の総帥から東北軍の総帥となりました。

北伐収束後は、中国国民党の主導権争いでは一貫して蒋介石を支持、西安事件時には蒋介石に次ぐ中国最高軍事指導者の地位にまで上り詰めていました。

20歳の時に訪日した際、同い年の当時皇太子であった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたというエピソードがあります。

楊虎城:西安事件の首謀者

楊虎城は中華民国の軍人です。

1893年、現在の中華人民共和国陝西省に生まれました。

1924年に中国国民党に入党し、1927年には中国共産党(中華人民共和国の政党。毛沢東は創立党員の一人)にも入党申請しています。

1929年からは中国国民党を率いる蒋介石に従い、中国国民党の軍である西北軍を指揮していました。

しかし安内攘外(まずは国内の敵中国共産党を倒してから国外の敵日本を倒す)という蒋介石の考え方に疑問を感じ、次第に反共(敵は中国共産党である)より抗日(敵は日本である)だと考える張学良に接近するようになります。

周恩来:西安事件を収束に向かわせた人物

周恩来は中華人民共和国の政治家です。

1898年、中華人民共和国江蘇省に生まれました。

1917年に日本留学、1920年にフランスのパリに留学、1924年に帰国し、孫文(中華民国の国父。中国国民党総理)が創立した中華民国陸軍の士官養成学校の政治部副主任となります。

この時の校長は蒋介石でした。

1926年上海で労働者の武装蜂起を指導しましたが、蒋介石の北伐軍に捕らえられ、処刑される寸前で脱出することに成功します。

そして1935年に開催された遵義会議(中華人民共和国貴州省の遵義市で開催された中国共産党会議)に出席し、毛沢東に軍事指導権を掌握する助けとなり、以降毛沢東を支持し続けました。

中華民国は現在も存在する国

ここで西安事件とは直接関係ありませんが、ちょこっと豆知識をご紹介しましょう。

西安事件に関する人物、蒋介石、張学良、楊虎城は中華民国の軍人や政治家です。

実は中華民国は、現在でも存在している国というのはご存知でしたか?

しかし、世界地図を見てもどこにも中華民国という国名は掲載されていません。

でも確かに世界地図に国の場所は掲載されているのですが、国名の表記が中華民国ではないのです。

では一体世界地図では何と表記されているのかというと…

台湾です。

中華民国は台湾と表記されているのです。

では台湾とは何なのか。

台湾とは台湾島とその周辺の島のこと、つまり国名ではなく地域名なのです。

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西安事件のきっかけ・背景

西安事件は張学良と楊虎城が蒋介石を監禁した事件のことでした。

プロフィールで解説した通り、西安事件の首謀者である張学良も楊虎城も中国国民党側。

何故中国国民党のトップである蒋介石を監禁したのでしょうか。

1934年頃、柳条湖事件(1931年に関東軍が引き起こした満州事変の発端となる鉄道爆破事件)で張学良は東北の地盤を失っていました。

張学良は蒋介石から剿共(中国共産党を討伐すること)に任命されたのですが、指揮下の軍で多くの将兵を失います。

この状況に張学良は楊虎城に剿共が不満であることを相談していました。

そんな時、張学良は紅軍(中国共産党の軍隊)の捕虜となり解放された兵士から、中国共産党が抗日民族統一戦線(日本を倒すために中国国民党と協力する作戦)を提案していることを伝えられます。

抗日民族統一戦線という考えに共感した張学良は、中国共産党と接触し始め、1936年4月9日、中華人民共和国陝西省の延安市で張学良は周恩来と極秘に会談を行いました。

そして9月に中国共産党と抗日救国協定を結び、中国共産党との争いを停戦することとなります。

張学良から相談を受けていた楊虎城も蒋介石の剿共作戦には反対でした。

一方、蒋介石は剿共戦により共産軍の兵力を大きく弱めることに成功し、中国共産党の軍を壊滅寸前にまで追い詰めていました。

そこで蒋介石は西安で、共産軍を一気にたたみかけて殲滅すべく最後の軍議を開きます。

しかし日本に対しては臨戦態勢をとってはいたものの、日本と会談を行い、日中友好を強く主張していた蒋介石。

蒋介石は紅軍(中国共産党の軍隊)への総攻撃を命じますが、張学良と楊虎城は中国共産党と接触していたため攻撃を控えていました。

このため1936年10月、蒋介石は張学良に攻撃するよう促すため西安を訪れます。

しかし張学良に中国共産党軍と戦う意思がないことを知り、蒋介石は東北軍を福建に移し、代わりの軍隊を集め始めます。

12月4日蒋介石は再び西安に赴き、紅軍殲滅の最終準備を整えて、張学良の東北軍と楊虎城の西北軍へ参戦するよう再度促します。

張学良と楊虎城が再度の督促にも応じなかったため、蒋介石は12月10日の会議で張学良の現職を解任して福建へ移動させると決定。

12月11日に開かれた会議でも蒋介石が張学良の抗日という考えを拒否したため、ついに12日に張学良と楊虎城が蒋介石を拘束するに至ったのです。

西安事件当日の詳細

1936年12月11日深夜、張学良が隊に蒋介石の監禁計画を打ち明け、作戦会議を行います。

12日早朝5時、蒋介石が滞在している華清池に向かって西安から監禁部隊が出発、西安では楊虎城の軍が西安賓館を襲撃します。

午前6時半、監禁部隊が憲兵を無視して華清池に入ろうとし、憲兵と銃撃戦を繰り広げます。

蒋介石は華清池の裏山へ逃げるも、護衛の者たちは次々と銃で撃たれ、一人で隠れ身を潜めます。

しかし午前9時にとうとう見つかってしまい、捕らえられて西安に連行、監禁されてしまったのです。

西安事件の舞台となった華清池には、当時の銃撃戦の跡が今でも残されています。

華清池は玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスでも有名な観光スポットです。

玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスについて詳しくは別記事でご紹介しておりますのでぜひご覧ください。

私が西安一人旅で華清池を訪れたときには楊貴妃縁の地くらいの知識しかなく、西安事件の舞台だったことは知りませんでした。

華清池で西安事件の銃弾跡やら蒋介石の滞在した部屋などを見て初めて西安事件の舞台であったことを知りました。

最初見たときは「なんで銃弾?西安事件てなんだっけ?華清池って楊貴妃だけじゃないの?」とロマンスと銃撃、唐時代と近代の時代差に混乱。

観光スポットを訪れる前は観光地の情報についての知識があるとより一層楽しみながら観光できるかなと思います。

蒋介石監禁の目的

西安事件で蒋介石を拉致監禁した張学良と楊虎城。

彼らの目的は一体何だったのでしょうか。

それは、蒋介石に次の8項目の要求を認めさせるためでした。

1.南京政府の改組、諸党派共同の救国
2.共産党の討伐停止
3.政治犯の釈放
4.政治犯の大赦(刑罰の消滅)
5.民衆愛国運動の解禁
6.言論集会の自由
7.救国会議の即時開催
8.孫文遺嘱の遵守

しかし蒋介石はこの要求を断固として拒否します。

一向に要求に応じない蒋介石の態度に困り果てた張学良は、中国共産党に周恩来の派遣を求めました。

周恩来が蒋介石の元を訪れて最初に話した言葉が「校長、お久しぶりですね」だったと言います。

周恩来は張学良と蒋介石の間に入り、蒋介石に中国共産党と中国国民党が協力して抗日することがいかに重要かを熱心に説きました。

周恩来の応対にとうとう蒋介石も折れ、8項目の要求の合意するに至ったのです。

まとめ

それでは今回の記事のまとめです。

西安事件が起こったきっかけは、張学良が蒋介石に剿共を反対され、中国共産党と協力するよう求めたが処罰を受けたことに不満を抱いたことです。

最初は張学良も蒋介石を支持していたものの、次第に蒋介石との考え方の違いに不満を抱くようになったからです。

考え方の違いとは、張学良は中国共産党と協力して日本を倒すべき、蒋介石は国外の敵よりまずは国内の敵、中国共産党を倒してから日本を倒すというもの。

西安事件の舞台は、玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスで有名な観光スポット華清池。

華清池はラブロマンスと銃撃戦という相反する歴史が存在する不思議な空間です。

華清池の景観を画像でたっぷりご紹介している記事もありますので、ぜひご覧ください。

歴史を知った上で刊行スポットを訪れると、思いを馳せながらより深く観光を楽しむことができますよ^^

西安を訪れることがありましたらぜひ華清池を訪れて、唐時代のロマンスと昭和初期の近代に中国で起こった敵視的事件に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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